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海部直・丹波国造・海部家始祖

当社の宮司家は古来「海部直(あまべのあたえ)」と呼ばれ、古代より世襲制で「丹波国造」の伝統を持ち、現当主は八十二代目に当たり、神社の始まり(創祀)から連綿として御祭神の血脈一系で奉仕しています。「海部(あまべ)」とは、応神天皇の五年に定められた部民の一つで、漁労を行う「部」と云う意味ではなく、大和朝廷の臣下となり、朝廷に海産物の貢納と航海技術を以て奉仕した「部」を云います。また、「直(あたえ)」とは、大王より地方豪族に与えられた政治的地位の姓(かばね)のことを云いますので、「海部直」を賜ったことは大和朝廷と密接な関係にあったことを意味します。

「海部直」の姓は応神天皇から賜ったものです。また「海部直」は「丹波直」と「但馬直」とを兼ねていました。

「丹波国造」の「国造」とは、大和朝廷の区分した、ある領域(国)を統治するために大和朝廷から任命された地方の有力首長のことを云います。大化改新前の国造はその統治する領域の、政治と祭祀の両方を司る権力を与えられましたので、その国の統治者(王)であり、祭祀王でもあったのです。

「丹波」とは、国名で丹波国造が統治していた国の名称です。籠神社のある丹後国は713年に旧丹波国から五郡を割き建国されましたので、ここで云う「丹波」とは、旧丹波国を指し、現在で云うと京都府の中部・北部そして兵庫県の一部を指します。

海部家の始祖は天照大神の孫神である邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄神に当たられる彦火明命(ひこほあかりのみこと)という神様です。彦火明命は籠神社の主祭神でもあり、天祖から御神鏡を賜り豊受大神を創祀した神様でもあります。

皇室の祖先神である邇邇芸命は天照大神から、天照大神の籠もられた御神鏡を賜り九州に天降られましたが、彦火明命は天祖から、豊受大神の籠もられた御神鏡を賜り丹後に天降られたと伝えられています。皇室の祖先神である邇邇芸命は天照大神をお祀りになり、一方籠神社海部家の祖先神である彦火明命は豊受大神をお祀りになったと伝えられています。彦火明命には二方(ふたかた)の后があり、一方(ひとかた)は大己貴神の女(むすめ)である天道日女命(あめのみちひめのみこと)です。もう一方(ひとかた)は俗に「宗像三女神」と呼ばれている神の一方(ひとかた)で市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。

海部家と海人族(あまぞく)

当社海部家は弥生時代においては若狭湾の航海権を統率する海人族の首長であったと云われています。真名井神社と天橋立の付け根の間にある平地には丹後最大級の弥生墳墓(紀元前一世紀頃)が営まれ、海人族の王墓であったと考えられています。若狭湾沿岸の鳥浜貝塚では、今から六千年前の長さ六メートルある日本最古の丸木舟が出土しています。同じく若狭湾沿岸にある舞鶴市(宮津市の隣)の浦入遺跡でも同時代の丸木船が出土しています。こちらの丸木船は長さ八メートルあり、同時代の丸木舟と比べると特別に大きいため外洋航海用と考えられています。つまり、若狭湾一帯は縄文時代から航海技術をもった海人族の拠点であり、漁労のみならず広域的な海上交易の要衝港であったと考えられます。漁労・航海・交易には危険が伴います。天橋立北側の真名井原に住んでいた海人族は食物獲得・航海安全などを祈り、磐座や水辺で太陽神・月神・火の神・水の神・雷神・海神・風神などの御魂を鎮める祭祀を行い、更に近海遠海の航海交渉や防衛を担いながら、大陸からの文化や技術を導入していたのかもしれません。

天村雲命

天村雲命(あめのむらくものみこと)は、海部家三代目の祖先です。この神の父神は、始祖である彦火明命と大己貴神の女(むすめ)である天道日女命との間に生まれた「天香語山命(あめのかごやまのみこと)」です。また母神は、始祖である彦火明命と市杵嶋姫命との間に生まれた「穂屋姫命」です。天村雲命は日向国にいた時に阿俾良依姫命(あひらよりひめのみこと)を后とし、丹波にいる時は伊加里姫命(いかりひめのみこと)を后とされました。 鎌倉時代に伊勢の外宮の神主によって書かれた書物によると、天村雲命は邇邇芸命が天照大神の籠もられた御神鏡を持って天降られた時、その前に立ってお仕え申し上げた神様です。天村雲命は邇邇芸命の命令によって天御中主神のもとに行くと、天忍石(あめのおしいわ)の長井の水(神々が高天原で使われている水)を汲んで琥珀の鉢に八盛りにし、天照大神の御饌(みけ)としてお供えするように、また残った水は人間界の水に注ぎ軟らかくして朝夕の御饌としてお供えするよう」命じられました。天村雲命はこの水を日向の高千穂の御井にお遷しになり、その後丹波の魚井(まない)の石井(当社奥宮の「天の真名井」の泉)にお遷しなった後、雄略天皇の御代、当社奥宮の「天の真名井」から伊勢外宮の豊受大神宮の御井にお遷しになったと伝えられています。
それ以来この御霊水は皇大神宮と豊受大神宮二所の朝の大御饌夕の大御饌として千五百年以上絶えること無くお供えされています。

倭宿禰命

倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は海部家四代目の祖先です。もとは「珍彦(うづひこ)」・「椎根津彦(しいねづひこ)」・「神知津彦(かんしりつひこ)」・「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていましたが、神武天皇東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策により天皇を無事に大和へと導いた大和建国第一の功労者として、神武天皇から「倭宿禰」の称号を賜りました。倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は倭国造であり、大倭国造の祖・大倭直の祖でもあります。
倭宿禰命は大和の国で「倭大国魂神(纆向遺跡の近くにある現在の大和神社)」をお祀り申し上げました。また倭宿禰命の子孫は播磨国で「明石国造」を累代名乗りました。

倭姫命

倭姫命は垂仁天皇と比婆須比売命(ひばすひめのみこと)との間にお生まれになった皇女です。伊勢神宮内宮と外宮を創祀され、三節祭を始めとする年中行事や神地・神戸・物忌(神職)等さまざまな決まり事を定められました。
倭姫命の母である比婆須比売命は丹波国(現・丹後国)出身で、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)と河上摩須郎女(かわかみのますいらつめ)との間にお生まれになった四姉妹(『古事記・日本書紀』の中に二姉妹・三姉妹・五姉妹等の異説がある)です。比婆須比売命の姉妹は全て垂仁天皇の后に上がられ、皇后となったのは比婆須比売命です。比婆須比売命は籠神社海部家の直系子孫と伝えられているので、倭姫命は海部家の外孫に当たられます。
倭と丹波(旧丹後)の血を引く倭姫命が皇室の祭祀する天照大神と当社海部家の祭祀する豊受大神を伊勢にお鎮めになったことは大変意味深いことです。

倭姫命は幾つかの教訓を遺されました。

「大神様は神様を崇拝し、祖先を敬い、感謝の心をもっている人の上におかげ(お恵み)を下さる」

空海と真井御前

空海(弘法大師)は籠神社世襲宮司家の三十一代当主海部直雄豊の娘である厳子姫との間に神秘的な物語が伝えられています。厳子姫は十歳の時に京都頂法寺の六角堂に入り、如意輪の教えに帰依し修行を積み、二十歳の時、まだ皇太子であられた大伴皇子(後の淳和天皇)に天性の美しさを見初められ、二年後即位された後第四妃として迎えられ、名前を故郷に因んで真井御前(まないごぜん)の名のりを戴き、淳和天皇の寵愛を一身に集めました。そのため女官たちの嫉妬に遭い、宮中を出て西宮の如意輪摩尼峰に神呪寺(甲山大師)を建立しました。この年、真井御前は空海を甲山に迎え如意輪の秘法を修し、二年後の二十八歳の時に如意輪像を造ろうとされた空海が大きな桜の樹を選び、その生き姿を彫刻されました。真井御前は三十三歳の時に師空海の坐す高野山に向かって如意輪観音の真言を誦しながら遷化しました。その翌日空海は真井御前の後を追うように六十二歳で入定されたのです。

画僧雪舟

神仏習合時代の当社境内には四十八の坊(僧侶の居所・小寺院)があったと伝えられています。室町時代の画僧雪舟が現在国宝となっている『天橋立図』を画くため、当地を訪れたときにはこの四十八坊の一つか或いは籠神社海部家に泊まり、作品を制作していたと考えられています。

詳しくは当社図録『元伊勢の秘宝と海部氏系図 -改訂増補版-』に収載されています。