天橋立の起源


當宮の御鎮座は両宮共に、前期の如く、神代、又は懿徳天皇の御代と傳えられているが、當宮境内の地続きに有名な日本三景の一つである天橋立が存在する。その起源については、上代は、當宮の神地神境否、神座とされていたもので、元初は、天神が天降られていて、国々島々を生み成されたとの傳であったが、一般に知られている古風土記には、男神伊射奈岐神が、久志備の浜の北辺にある真名井原(女神所在の奥宮)へ天から通われる時に造られた梯(これを天浮橋と云う)が、大神が地上で一夜寝ていられた間に倒れ伏して出来たのが天橋立であるという説が伝えられている。天橋立は、又、海橋立ともいって、別に海浮橋という古傳もあった。内海(阿蘇海)を、神輿が、神幸(船渡御)されて、龍穴から龍宮城へお出ましになった古傳もあり、海神の宮も橋立明神と稱して現存し、龍灯の松の傳もある。
 同大神は、真名井神社の裏側の磐座(磐境とも云う、社殿創始以前太古の祭場)西座にお祭りされてあり、この磐座を俗には、鶺鴒石或は子種石と呼んで、天照大神御出生の地と伝えられ、日之小宮という。
 この伝説で窺われるように、我々の遠い祖先人は、天上の神と地上の人間界とを結ぶ梯、天浮橋が倒れて出来たものが、天橋立であると素朴に感得したのであって、遠い上代から當神社の神域の内であり、又、近代に至っても境内であったが、後に参道ともなった。幕末文政の頃、元伊勢(當宮の事)を目指した善男善女のお蔭参りの列が、天橋立を埋めつくしたと云う記録が残っている。古歌に、「神の代に、神の通ひし跡なれや、雲居に続く天の橋立」と見えていて、その聖地であったことを物語っている。即ち、天橋立は、ひたすらに神を信じ、真、善、美を、その生の中に追求した敬虔な祖先人の心境にはぐくまれて、白砂青松、幾千代変らぬ麗姿を神と人とのかけ橋として、紺青の海に示現しているものである。その生誕は極めて神秘であり、清浄である。何人かの歌に、「何時よりか天浮橋中絶えて、神と人とは遠ざかりけむ」と見える。
 今の宮津市は和名抄に載っている昔の宮津郷であって、宮津と云う地名は當宮の古称である与佐宮、又、籠宮の宮の津(港)の意であって、それから宮津の地名が起きたと伝えられる。又、宮津市域に隣接している与謝郡の地名も、當社奥宮の古稱吉佐宮から発祥したもので、天橋立・宮津・与謝の三地名は、古代の當社との縁由を物語る貴重な資料である。